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燕工場リンク

燕工場リンクにようこそ!
新潟県燕市の企業群が各々の機械設備・加工ノウハウ・得意商品を連携させお客様のあらゆるご要望にお応えします!お気軽にご相談ください。

ごあいさつ

燕という場所は江戸時代から和釘や銅の板金で培われた金属加工業の町で、洋食器で有名でした。現在は様々な金属加工業の町として、暮らしております。大企業はなく、典型的な中小企業の町です。狭い所ですが、材料問屋(鉄、ステン、銅、金、銀、樹脂)、金型屋、プレス加工、樹脂成形、板金、磨き屋、機械加工、塗装、メッキ、金物問屋、機械メーカー、デザイナーなど多士済済であります。人口の割に社長が日本で一番多い町とも言われています。それらの人々が緊密に連携してあらゆる加工に対処しております。飛行機とか自動車とかテレビを作れと言われるとこまりますが、部品や日用雑貨であれば、長年の経験のもとにまず問題なく対応することができます。

燕の企業の連携を生かしてお客様のあらゆるご要望にお応えする所存です。燕工場リンクを大いに活用してくださいますようお願い申し上げます。

燕工場リンク チェアマン 賀井治久

燕工場リンク チェアマン
賀井治久

燕市の工業の歴史

燕の工業は農民の副業から始まった?

燕産業は、遠く江戸時代の初期、農村の副業として始められた和釘の製造技術の導入に始まった、といわれています。たび重なる信濃川の水害で困っていた農村 の情況を改善するために、江戸より和釘職人が呼ばれ、和釘づくりが農家の副業として薦められ、燕地域に広まったのです。

和釘の大部分は燕・三条の問屋を経由して江戸に運ばれました。この和釘の生産は、元和年間(1615~1623)の江戸地震・大火には災害復旧に大きく 貢献したといわれています。それ以降、江戸の数多くの大火によって釘の需要が増大し、著しく繁忙をきわめました。

釘鍛冶職人は近郷をあわせ千人とまでいわれ、徳川時代から明治初期までは、燕産業の約80%は和釘の生産で占められるに至り、福井県小浜市とともに東西の和釘の本場となりました。

銅器・ヤスリ・キセル・矢立の生産のはじまり

元禄年間(1688~1703)に越後の間瀬銅山(弥彦山の麓)が開かれると、伸張性に富んだ良質銅であったこともあり、この間瀬の銅を使って、燕では銅 などの銅器の生産が行われるようになりました。この銅器づくりは鎚起という技法が使われていますが、この鎚起技術は仙台の銅器職人によって燕にもたらされたといわれています。この技法は一枚の銅版を大小様々な金槌(かなづち)を用いて打ち延ばすもので、継ぎ目のない銅器がつくられます。美術工芸品としての 評価も高く、海外の博覧会にも出展され、昭和56年には通商産業大臣より伝統的工芸品として指定されるに至っています。

そして銅器とは別に、1700年頃から鋸の目立て用の道具としてヤスリの製造も始まり、広島県呉市等と同様に、代表的な産地となっています。また、キセルも間瀬の銅を利用して製造が始まり、燕の金属圧延技術と彫金などの飾り物の技術が一体となって発達しました。それにやや遅れて矢立(旅行用筆)の生産も始まりました。

時代の変遷・需要の変化

日本が鎖国時代に終わりを告げ、幕末の開港をむかえると、西欧の製品である洋釘が輸入され始めました。と同時に日本国内でも洋釘の生産が始まり、明治20年以降洋釘は完全に日本市場を席巻し、燕の和釘は消滅していきました。

また、明治末期から大正初期に入るに従い生活様式や人々の好みにも変化が表れました。大正の全盛期には全国一の生産地に発展するまでに至ったキセルは紙巻タバコに、矢立は万年筆へと大衆に広がりました。

そのほか、明治末期からアルミニウム製品が急速に広まり、さらに大正3年の第一次世界大戦により銅の価格が高騰しました。一時は30件以上あった業者も他産業に転換を余儀なくされ、その結果銅器産業は、花器・茶道具等の伝統工芸として継承されるに至り、時代の変遷により燕産業は大きな局面に立たされるこ ととなったのです。

燕洋食器産業の始まり

洋食器の製造は、様々な金属加工の伝統の上で進められました。発端は、東京の金物問屋から金属洋食器の注文が舞い込んだことが始まりです。燕の職人がフォークを試作してみたところ、その評判は悪くなく、次いでスプーンも製作されました。またナイフは、岐阜県の関市から刀鍛冶職人10人を呼び、ナイフの 製造にも成功しました。これらの成功の影には、近世からの伝統的な伸銅・圧延・彫刻・研磨・鍍金などの加工技術蓄積があったからです。

燕の金属洋食器は、完全な輸出型地場産業として発展しましたが、太平洋戦争開戦後、まもなく製造禁止になり、軍需産業への転換を余儀なくされました。

敗戦後、戦災を被ることのなかった燕の金属洋食器工業は設備が残っており、比較的早く生産が再開されました。燕洋食器は、日本を占領していたアメリカ軍の注文を受けることで復活し、さらにステンレス洋食器の大量生産に成功しました。

以後、新しい技術を導入し、燕洋食器は再度輸出型地場産業として発展し、国際的地位を築くに至ったのです。

金属ハウスウェア産業の誕生

またステンレス加工技術の発達などから新製品開発に着手し、金属ハウスウェア産業が誕生しました。現在では国内の主要産地として、金属洋食器とともに全国生産額の約9割を占めています。

燕は和釘、鎚起銅器、ヤスリ・キセル・矢立などの産地としてその名を知られていますが、燕産業の歴史とは業種転換の歴史、と言われるほどに、それぞれの時代の需要に応じてさまざまな製品を生産し、販売してきたという歴史があります。

優秀な金属加工の技術を生かし、プラスチック製品・自動車部品・ミシン部品・金属雑貨・ゴルフクラブ・カーブミラー・農機具・精密機械部品・除雪機械な どあらゆる分野への多角化が行われており、今後の燕の地場産業の発展が注目されております。

燕市の卸売業

金物商がはじまり

古くは江戸より鋸(のこぎり)・ノミ・鉞(まさかり)・斧(おの)などを仕入れて、この地方に売った金物商であったと言われています。

昭和初期、燕の卸売業の主な取扱商品はキセル・銅器・ヤスリなどで、北は北海道、南は九州そして遠く朝鮮まで販売網があったと言われています。

卸売業界は燕市街地に点在しており、第二次世界大戦後、金属用食器・金属ハウスウェアの進展とともに、激増する交通量との関連から卸売機能の十分な発揮が阻害され、その対応が急務とされました。

昭和47年、上越新幹線並びに北陸自動車高速道路の設置が燕市に決定しました。上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕I.C間の最短距離は、およそ200メートルで日本一近いといわれています。
これを機に卸・配送・サービス機能を集約した物流センターの計画造成に着手しました。現在卸売業・トラックターミナル・金融機関・その他関連機関が進出し、重要な産地製品流通の拠点となっています。